こどもの国日誌

2019/5/23
ワンダーミュージアム

【報告】smalltalk~ワンダーミュージアムのはじまりの話~

昭和の時代に誕生した沖縄こどもの国。
平成の時代に誕生したワンダーミュージアム。
そして迎えた令和の時代。

沖縄こどもの国のミッション
「人をつくり・環境をつくり・沖縄の未来をつくる」

ワンダーミュージアムのコンセプト
「理解と創造は驚きにはじまる」

ワンダーミュージアムのはじまりには、
沖縄こどもの国の再生をかけたプロジェクトがありました。
そしてそこに奮闘した人たちと、沖縄への想いがありました。

「ワンダーミュージアムの空間って、ちょっと変わってますよね」
初代館長・屋比久さんのそんな語りかけから始まった「smalltalk」。

そう、変わってるのは空間だけじゃない。
だからこそワンダーミュージアムが実現したのだ。
そう思えたエピソードの数々。

なぜワンダーミュージアムができたのか、
これからどこに向かっていくべきなのか。


ワンダーミュージアム15周年を記念して開催されたお話し会「smalltalk」
ワンダーミュージアムの物語。はじまりのお話。


屋比久と言います。今日はお集まり頂き、ありがとうございます。
ワンダーミュージアムが15歳の誕生日を迎えると。そこで少し話をしてほしいという、とてもとても嬉しい光栄なお申し出を頂きました。
皆さんが貴重なお時間を割いて、ワンダーミュージアム誕生の記念の時に一緒に時間を過ごして、改めてワンダーミュージアムって何だろう、なぜワンダーミュージアムができて、今どうやっていて、そして、どこに向かっていくのかという方向性とこれからのビジョンについて、少しでもささやかなヒントになれば、嬉しいなと思って引き受けさせて頂いています。どうぞ、よろしくお付き合いください。


初めて、ワンダーミュージアムの空間に足を踏み入れた方もいらっしゃいますか。どういう印象をお持ちでしょうか。
この空間って、ちょっと変わっていますよね。普通直線的で、いわゆる四角というか、そういう建物が多い。もちろん、そのほうが構造的にも安定し、造りやすいということもあると思うのですが、なぜか、丸い空間。おたまじゃくしのような円形で、球状になっています。非常に建築設計泣かせの建物だったと思います。つまり、どういう空間にしたら、こどもたちが自分を解放して、のびのびと遊んで学んでいけるかなというところから、この空間の形状が造られていったと記憶しています。この吹き抜けが凄くユニークで、丸い柱、円筒のような感じで縦に広がり、そして横に円がつながるような形で広がっています。全体で3階のフロアがあるのですが、最初、何も展示がない、だだっ広い空間の中に足を踏み入れた瞬間、厳粛さと自由、不思議な感動を覚えたことを思い出しました。この空間でこれからどんな物語が始まるんだろう、どれだけのこどもたちが、どんなふうに過ごしていくんだろうと。


さて、不思議な名称ですよね、ワンダーミュージアム。その由来をお話したいと思います。
レイチェル・カーソンという生物学者が1960年代に「沈黙の春」という、いわゆる環境問題に警鐘を鳴らした最初の書物を世界に問うて、公害を当たり前のように、ある意味必要悪というか、企業も無反省に科学的進歩と産業振興に突き進んでいった当時に、静かな、一見おとなしそうな方なんですが、しかし彼女が書いた、海が汚染されている、このままでは地球が危ないという本を書いたんですね。そのレイチェル・カーソン晩年の「センス・オブ・ワンダー」という本には、そのワンダーというキーワードが実は原点にあります。日本語に訳すと、驚きとか驚異とか、神秘のようなニュアンスなのですが、この驚異を感じる感性のことが書かれています。甥っ子の少年と海辺を一緒に散歩しながら、驚いたり不思議がったり、そういう体験を一緒に共有し、共感する。こどもたちにとって第一に知識よりも感じることが凄く大事で、その感性を伸ばすためには、それを共有し分かち合う大人が一人でも側にいたら、全然違うと。そのこどもの感性はどこまでも解き放たれて、伸びていく。でも、逆に共感する大人がいなければ、その子の感性はしぼんでしまう、広がっていかない。そういうメッセージが、センス・オブ・ワンダーなのです。

レイチェル・カーソンの言葉(上遠恵子訳)を紹介させて頂きます。
「さまざまな情緒や豊かな感性は、この種子を育む土壌です。子ども時代はこの土壌を耕す時です」
「子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは、大人になるまえに、澄み切った洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直観力をにぶらせ、あるときにはまったく失ってしまいます」
「人間を超えた存在を認識し、おそれ、驚嘆する感性をはぐくみ強めていくことには、(略)永続的な意義深いなにかがあると信じています」
「地球の美しさや神秘を感じとれる人は、(略)かならずや内面的な満足感と生きていることへの新たな喜びへ通じる小道を見つけだすことができると信じています。地球の美しさについて深く思いをめぐらす人は生き生きとした精神力を保ち続けることができるでしょう」
「鳥の渡り、潮の満干、春を待つ固いつぼみの中には、それ自体の美しさと同時に象徴的な美と神秘がかくされています。自然が繰り返すリフレイン。冬が去れば春が来る。夜の次に朝が来るという確かさの中には限りなく私たちを癒してくれる何かがあるのです」
「世界の喜び、感激、神秘などを子どもと一緒に再発見し、感動を分かち合ってくれる大人が側にいる必要があります」
この言葉、この世界観がワンダーミュージアムの背景、原点にあるということをもう一度、皆さんと再確認できたら、嬉しく思います。


実は、ワンダーミュージアムのプロジェクトが始まったのが平成9年。ワンダーミュージアムが開館した平成16年からさらに7年ぐらいさかのぼります。それから、ワンダーミュージアムの歴史が始まった、準備が動いたということになります。
当時、ハード先行の公共建築物があって、沖縄振興にとっていわゆるハコモノ行政というのはいかがなものかという問題が渦巻いていました。沖縄で米軍基地を抱える25の市町村があったのですが、市町村が企画をし、ハコモノではない、ソフトや運営を考えた事業ベースのプロジェクトを立ち上げないか、チャレンジしてほしいということが国からあって、そこで手を挙げたのが、沖縄市の「(仮称)こども未来館及びその周辺施設整備事業」というプロジェクトでした。

今、事務局長をされている源河さんと一緒に辞令を受けて、沖縄市役所でこのプロジェクトが始まったんですね。実は僕も去年還暦を迎えて、定年退職をこの3月にし、今こうして改めてワンダーミュージアムを振り返る機会を与えられ、感慨深いものがあります。源河さんの前で話すのは非常にやりづらいのですが(笑)。裏も表も知っていて、僕がつい話を盛りすぎないようにチェックを頂きながら、自然体でお話したいと思っています。ちょっと距離が近いですが、この近さに耐えられる風貌ではないので、ご勘弁いただきながら、リラックスして聞いてください。僕も構えずに、取り留めのない話になってしまうかもしれませんが、できるだけオープンに、そして正直に素直にお話したいと思っているので、皆さんもどうぞ、くつろいだ気持で、姿勢もちょっと崩しながら聞いて頂けたら、有難いなと思っています。


そもそもなぜこのプロジェクトが始まったのか。
それについては、沖縄こどもの国の歴史そのものを語らずにはいられません。こどもの国(財団法人として)がいつ頃できたか、ご存じですか? 本土復帰を記念して出来たのです。1972年。ですから、やがて50年、半世紀を迎えるわけです。実は、当時の大山朝常コザ市長、屋良朝苗沖縄県知事、大浜信泉南方同胞援護会会長、この3人がキーパーソンです。沖縄が本土に復帰するにあたって、何か沖縄の子どもたちにプレゼントをしようという話で盛り上がって、特に、大浜先生は石垣出身で、東京に出て、ずっと沖縄のことを案じていたので、そういう企画提案をしました。それに賛同したのが、元々教師だった屋良知事や大山市長でした。教育・福祉への思いが人一倍強い3人がスクラムを組んで、沖縄こどもの国が出来たと言っていいと思います。
ただ沖縄県にということだったので、最初からコザ市ということではなく、誘致合戦が始まりました。嘉手納基地が出来て、戦後の沖縄を象徴するコザ市。子どもたちの環境もひときわ厳しい状況にあるというところも含めて、ここに立地でいいんじゃないか。だからこそ、沖縄市、当時のコザ市につくろうということで、ここで建設が始まったと。全国で募金活動をして、多くの小中学校から浄財を頂いて、こどもの国の建設事業がスタートしました。最初は動物園ではなかったようですが、進んでいくうちに動物園に形を成していくわけです。

それから、約30万人ぐらい順調にお客様を集めて、高台に大きな遊園地ができたのです。大きな観覧車、ジェットコースターができて、最初は50万人ぐらい、すごい勢いだったのですが、2年目からは右肩下がりで毎年のように入場者が減っていって、ついに40万人が30万人になり20万人になり、ということで急激に10年ぐらいで落ち込んでしまいました。いわゆる経営危機にこどもの国が陥ってしまったということで、民間企業が遊園地を運営していましたが、今から振り返ると、財団法人沖縄こどもの国は動物園を核にした施設ですから、コンセプトがやはり相容れないということもあって、なかなか共存が難しかった、あるいは発展性に乏しかった、という根本的な弱点を抱えていたのかなぁと。
やっぱり、コンセプトってすごく重要で、誰のために、何のためにこの施設があるのか、どこを目指していくのか、どういうスタンスで運営をしていくのか、というところをもう一度足固めしないといけない、土台からつくり直さないといけないということで、このプロジェクトを始めたというふうに記憶しています。


平成9年、僕が39歳の時でした。娘が二人、当時5歳と3歳で、こどもの国で仕事をさせて頂くことになるなんて、全く想像もできない頃、遊びに来たんですね、家族と。こどもの手を取ってこどもの国に来ました。残念ながら、ちょうど落ち込みが厳しい時期だったので、お客様がいないんですよ。動物たちと向かい合うんですが、なんかこう、楽しみたい、盛り上がりたい、ルンルンで家族で楽しい思い出をつくりたいと思って久しぶりに来たのに、なんだか寂しくて。人がいないとさみしいんですね。心なしか動物もさみしげで。どうしたんだろう、こどもの国。いつの間にこうなっちゃったんだろうという思いがあって、誰か、なんとかしないの?と家族と話しながら、もっと明るくて賑やかな、人が集まる動物園、こどもの国に戻ってほしいなと会話をしながら帰ったのを思い出します。

それから、しばらくして人事異動の辞令が。こどもの国再生プロジェクト!というような感じで、辞令を頂きました。びっくりしました。誰が責任取るの?みたいに言いながら帰ったのに、投げたボールが自分にブーメランみたいに返って来て、俺が責任を取る、頑張らないといけないんだと。燃えるものがありました。やっぱり楽しい空間にしたいじゃないですか。こどもたちが楽しいって言ってくれる、夢中で遊べる施設にしたいという具体的な目標ができて、よし! 楽しい所にして、また人が集まって、娘たちに「お父さん頑張ったね」と、言ってもらえるようにと、気合を入れて。

プロジェクト・チームでは、いろんな所を視察し、計画をつくり、議論を重ねて、市民の皆さん、現場のこどもの国のスタッフの方々と話し合いをしながら、沖縄こどもの国の新しいコンセプトは「人をつくり・環境をつくり・沖縄の未来をつくる」にしようと。やっぱり、人材育成だよね、沖縄の子どもたちが成長できる、楽しくて学べる施設だよね。そこに焦点をあてようということで、人材育成施設、体験学習施設としてのこどもの国の再スタートが始まりました。


こどもの国イコール動物園。これは今でも変わらない永遠のミッションですが、プラスα、全国でもユニークなこどものための施設をつくっていこうと。こども施設といえば科学館、あるいは児童館、青少年センター。また、こういうものを集めた複合施設というのが、行政としては定番中の定番でした。
そこに、一つの出会いがありました。プロデューサー目黒実さんとの出会いがあって、「チルドレンズミュージアムをつくろう」という本を書いた方なんですね。チルドレンズミュージアム、直訳するとこども博物館。何の変哲もない言葉なんですが、あえて、チルドレンズミュージアムという言葉を使わせて頂いたのは、もともとアメリカで200ぐらいあって、世界に広がっている体験学習型ハンズオン展示。展示物って普通は触っちゃいけないですよね、貴重品があるので。でも、こどものための博物館だったら、触ってOK。極端にいえば、壊してもOK。壊れれば作り直せばいいじゃないかぐらいの勢いで、ハンズオン。ハンズオフではなくて、ハンズオン展示のチルドレンズミュージアムがあると。それを日本で普及させたいという志を抱いた目黒実さん、増井玲子さん、チームの方々に出会って、この新しいタイプのこども施設、チルドレンズミュージアムを沖縄でつくろうということになりました。

目黒実さんという方がどういう方かということをまずご紹介したいと思います。芸能界にもネットワークがあって、プロデューサーとして実績があり、ブロンズ新社という絵本等の出版社を立ち上げたり。福島の霊山町で「遊びと学びのミュージアム」をつくった方なんですね。沖縄に想いのある方で、沖縄に対して僕ら本土の人間は非常に申し訳ないことをした、沖縄に多くの犠牲を強いたと。目黒さんは自由なアーティスト肌の方ですから、その側でフォローするような形で増井さんが穏やかな笑顔で安心感を与えてくれました。この出会いを通して、新たなワンダーへの旅路が、冒険の旅路が始まりました。そして、市民の参画、また全県的に「チーム未来」を募集したのですが、志ある人たちが集まって、こどもの国を再生させたい、経営危機から救いたいという人たちと一緒になって議論を交わしました。

目黒さんは交渉力に優れていて、怖いもの知らずなところがあって、彼とそのチームの議論を見ていると、非常にクリエイティブなんですね。タブーはなくて、何でも議論をして、最後にジャッジし、決断をするのは目黒さん。その覚悟というか、腹の決め方みたいのはすごく刺激になりました。そして、まとめ役の増井さんが誠実に丁寧に一つ一つに対応する。当時はメールとかなかったので、faxでやり取りしたのですが、もう何百枚もあって。そして、設計士、建築士、展示の専門家、経営の専門家などがいて、彼らとのコラボレーションが今のワンダーミュージアムのベースをつくったと思っています。


僕はやっぱり本場のチルドレンズミュージアムをどうしても見たいという思いが抑えられず、家族と一緒に自費でアメリカのサンフランシスコの「エクスプロラトリアム」という科学博物館に行きました。そこはハンズオン展示の最先端で、工房があるんですね。創っては壊し、創っては壊し。アーティストや科学者、モノづくりの方々が集まっていて、創造のかまどのようでした。大人もこどもも年齢を超えて遊んでいる、あるいは学んでいる。好奇心を刺激されて、沸々とたぎっているようなクリエイティブな空気に触れて、凄いなあーと。こども心に戻って冒険をしていく、探求をしていく。まさしくチルドレンズミュージアムの本山なんだと思いました。それを目の当たりにして、沖縄に戻ってきました。

プロジェクトでは、計画をつくって、あと運営は別の方々がやるというのが普通じゃないですか。役割分担でそれぞれの強みや専門性を活かすという意味では常道だと思うのですが、総合プロデュース方式、調査し議論したプロセスを一貫させないと本物はできない。つまり、計画をつくる人と運営をする人、あるいはハードの建物をつくる人が別々じゃ、駄目だと。そこを一貫させるポリシーとかコンセプトが必要だということをしきりに目黒さんたちは強調していたんですね。それが印象的でした。
僕も影響を受けて、こどもの国で働きたいと思いました。だって計画つくって、ワンダーミュージアムで働かないなんて無責任だと単純に思いました。なんだか逃げているような感じがした。それで手を挙げて、行かせてくださいと。あんまりこんな人いないかもしれませんが(笑)。無謀ですよね。そういう力量もないし、現場がどんなところで、動物園やワンダーミュージアムをつくるということがどれだけ大変なことで、またこどもの国の歴史の中で働いてきた先輩方の中に入っていくと、どういう事態になるのか、全くわからない。だから、身の程知らずにも手を挙げたんだと思います。


そして、やはり経営が大事だということで、公募したんですね。民間の経営力のある方を専務理事、施設長としてお迎えしたいと。最終的に白羽の矢が立ったのが西川嘉伸さんという全日空の取締役までいった方です。沖縄で一時、万座ビーチホテルで社長をされて、沖縄の経済界にも人脈のある西川さんが沖縄のためにと、一肌脱いで専務理事として来て頂けることなりました。西川さん、単身赴任なんですよ。60代の半ばでしたかね。当時、経営コンサルタントとして悠々自適の生活をしていらして、しかし沖縄に来るということは奥様を残し、単身赴任。アパートでの一人暮らしも初めてという大変な状況で、やはり行政のいろいろなルールもあるし、予想もしない課題が山積している。そこで、西川さんをお迎えする以上、秘書役として行政と財団のパイプ役も必要ということで、そこで有難いことに、僕が派遣で5年間働かせて頂きました。

西川さんという人は本当に実直な方で、ある意味目黒さんとは対照的です。目黒さんは自由人で、それこそ安保闘争の真っ只中で頭を殴られ入院し、目覚めたときに俺はこのあと何を目的に生きていけばいいんだろうというぐらいの、そういう人です。そして放浪の旅に出て、沖縄に辿りついて沖縄への想いが芽生えて、沖縄のために何かしたいと志を抱いて関わって頂きました。一方、西川さんは愛国心のある方で、今は愛国心というと戦前のイメージがあるのでちょっとイメージがネガティブなんですが、僕は彼に出会ってはじめて日本をこんなに愛する、日本の将来を憂いている人がいるんだと思いました。そして、沖縄が日本の将来を左右する大事なポジションになるという信念を持っていたんですね。だから、沖縄のために自分は何かしたいという思いを抱いていて、沖縄こどもの国の公募を知った時に、俺に何かできることがないか、日本のため沖縄のためにということで、決心をして来て頂きました。つまり、自分のことではなくて、大義のために生きるという生きざまを西川さんから学びました。汗まみれ泥まみれになって、体ごと矢面に立つという生き方をまざまざと見せて頂きました。


当時、40ぐらいの県内の企業を訪問し、できるだけ経営トップに会って、こどもの国よろしくお願いしますと。また、地域に根差さないといけないということで、小中学校とか商工会議所の団体等を60ほど一緒に廻らせてもらいました。1~3か月はそういうことばかりでした。つまり、人脈、ネットワーク、そういう皆さんの支えや応援がないと成り立たないということを西川さんは骨身に徹して知っておられたのでしょう。全日空の経営で。彼がそうやって立て直しました。驚いたのは、華々しく改革をするのかと思ったら、全然そうじゃなくて。職員一人一人の話を聞いたりして、地道にコツコツコツコツ。もう、僕なんかのような何も知らない人間からすると、生ぬるく見えるぐらいに地味なんですね。

西川さんが言ったのは3つだけ。
「あいさつをしっかりしましょう」職員同士、お客様に対して。
「ゴミを見つけたら、拾いましょう」西川さんは近くから歩いて通勤されていたのですが、その途中もごみ拾いをしているんですね。
「今日は何名入ったか、いくら収入があったか、それを全職員が意識し、一日一日チェックをしましょう」。

えー、ホントにこんな地味なことをコツコツやるんだと。
一番感動したのは、最初は2年だったのが、それが結局5年いて下さったのですが、在任中に華やかに、例えば、来場者が20万人から30万人、40万人になれば、「さすがは西川さん、経営者だ!」と脚光を浴びますよね。そんなことは全くしませんでした。自分がいなくなった後で、こどもの国という財団が堅実に安定的に持続性のある運営をするため、自分はここに来たんだと。だから、自分が赴任している間、実績が伸びることではないと。大事なことは土台づくり、企業風土・文化をつくる、職員の意識を変えていく、それを地道にやることが、5年後、10年後につながる。自分はそのためにいると。本当の経営はこんな風に凄く地道なことなんだなと教えて頂きました。文字通りそれを実践し、彼が去った後、今や40万人を超えて、50万人に届くところまできている。しかも打ち上げ花火のようではなくて、地道に地道に右肩上がりで行く、そういう経営を見せて頂いたと思っています。

今日は、目黒実さん、西川嘉伸さんという2人の、県外の方ですが、一流のプロデューサー、経営者のことを皆さんにご紹介したいと思いました。理屈や机上の議論ではなくて、こういう生きざま、志をもった、肌合いは対照的ですが、一人の自由人のプロデューサー、一人の滅私奉公的な大義に生きた企業戦士。節目節目で体を張って、この沖縄のために、こどもの国のために、一肌も二肌も脱いだ人たちがいて、ワンダーミュージアムがここにある、ということをぜひお伝えしたいと思いました。

目黒さんは、伊丹十三さんからオシャレで粋なセンスを学んだと。生き方自体がしなやかで、自由自在。文化とか民主主義とか芸能とか出版とかというところを生きた人です。戦後の日本の価値観が多様化していく中で、個人の生きざまというものを求めた人で、そして、こどもや宮沢賢冶に行き着いた人であると思います。
西川さんは、外国と貿易をするような企業に入りたかったらしいんですね、ところが面接で家族のことを聞かれて、面接官に対して怒ったそうです。俺はこんなところは受けないと言って席を立ったそうです。なんで俺を見てくれないんだ。なんで家族とか、そんなことを聞くんだと、おかしいといって。そのぐらい一本気な人でした。活火山のように爆発する人なんですよ。正義感が強いから。何度も爆発して、何度も叱られましたが(笑)。国のバックアップもあってJALが独り勝ちの当時、岡崎嘉平太というスケールの大きな方で、まだ中小企業だった全日空の前身の会社の社長の志に心を打たれて、よし俺はこの民間会社のために尽くそうと決めたという話を何度も僕にしてくれました。岡崎嘉平太という人は日中国交正常化をビジョンに描いて、航空会社をやっていた人なんですね。

この二人が交差して、こどもの国、ワンダーミュージアムに関わったということが、大きなバックボーンとしてある。じゃあ、沖縄の僕らはどういう生きざまをし、どういう志をもってこれからの15年50年、生きていけばいいのかということを改めて思う次第です。


そして、職員の採用。これも公募して、志のある若い人たちが集まりました。220名が受験したんですね。なんと、その中から5名しか採れないという。西川さんと一緒に問題もつくり、面接もし、財団の管理職の皆さんと議論しました。西川さんが言っていました、公平に、公明正大にいこうと。そして、一つ原則をつくったんですね。管理職全員が賛成、納得しないとダメだと。ということは、多数決では決めないと。徹底的にどういうポジションが必要で、この役割に必要なのはどの人かという視点ですね。だから、ITに強い、あるいはワークショップ、教育普及、営業というふうに個別にポジションを決めて、その視点から誰が今ここにふさわしいかと。しかし、あの人この人って、思い悩むじゃないですか、会議室に書類を広げて。もう毎日毎晩、履歴書とにらめっこしながら、家に帰っても、寝ても覚めても浮かんでくるんですね。それぐらい必死でした。西川さんがこの人たちで決まると。結局、組織って、人だよと。人間性とか志とか心意気とかで決まるからと言われて、余計に真剣勝負で採用に臨んだのを覚えています。

そうやって集まったメンバーと、アルバイトの皆さん、契約の皆さん、パートタイムの皆さん、同じようなスタンスで僕らは臨みました。やはり、ポジションとのマッチングということがあるので。そうやって、一人一人集まったメンバーの想いとか情熱とかで、ワンダーミュージアム、こどもの国は成り立っていると思います。その精神、スピリットは脈々と今も受け継がれているというのを肌で感じています。

あと、西川さんのエピソードを一つだけ。とてもスピード感があって、ブルドーザーみたいなところがあって、毎日のように課題を出すんですね、宿題を。その重圧、プレッシャーたるや大変だったのですが、僕ら頑張りました。当時のスタッフ、今は中核メンバーになってこどもの国を支えているメンバーですが。西川さん、気合いが凄いんです、圧が凄い。話し言葉では負けるので、一生懸命に図式化し、書き言葉にして、ホワイトボードを専務室に持って行って、ビジュアルで訴えたんですね。そこは西川さん、度量があるので、こっちが真剣に臨むと受け止めてくださって、スタッフの声も反映させつつ、楽しい議論ができて、最終的には信頼してくれました。僕のことを買いかぶっていると思うぐらい信頼してくれた。この人の信頼に応えねばという気持ちで、スタッフと一緒に頑張ったのを覚えています。


リニューアルオープン1年前の平成15年6月に、西川さんが赴任して、12月にコアスタッフを採用し、オープンが4月15日。ある専門家や経験者から言われました。無理だと。僕には全くミュージアムの運営経験がない。動物園としては30年余の歴史があり、ベースがあるので、動物園は大丈夫。しかし、ワンダーミュージアムは全くの白紙。仕組みもゼロからつくるという時に、無謀なことに、ど素人たちが集まっては無理だと。時には僕も無理だと思い、何度も万事休すと。どういうふうに運営を回して、どのフロアにどの展示に何人配置して、修理やまわし方はどうやって、一日一日どれだけの人と予算をかけて、危機管理はどうするかというのも全く分からない。しかしそれでも、集まったスタッフやこれまでの経過、こどもの国の歴史を思うと、もちろん、やるしかないと。

個人的なことですが、もう祈るしかないと思いました。神様に祈って祈って、星空を見ながら、時に朝早く。本当に祈るしかないんです。神様がこの沖縄やこどもの国を見守って、大事な施設だと思って下さるなら、必ず成功へと導いて下さる。僕にはそれしか拠り所がない。スタッフの共通の想い、願い、憧れ。それを祈りという形で僕は言葉にしてきました。ただ心の中で祈るのではなくて、波動があるじゃないですか、言葉が言霊になって伝わっていく。スタッフに伝わり、お客さまに伝わり、何よりこどもたち、お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんに伝わり、広がっていく。地球のように丸いワンダーミュージアムの空間。宇宙にまでつながるような神秘の世界、美しさ、驚異につながるワンダーミュージアムになったらいいなという祈りがつながって、今があると思います。


そして、平成16年4月15日を迎え、すぐにGWがやってきますよね。GW何名来るの?と。たぶんワンダーは、一日5,000名ぐらい来たのかな。それで安全管理のために、動線をつくり、回転しやすいように工夫したりして、館内に同時に滞留できる人数を400~500名ぐらいに設定して、入館制限をかけたんです。リスクがありました。新規施設でニュースに流れて、ワクワクして来たのに入館制限して、列をつくって待って頂いたんです。各フロア確認して10名とか20名づつ小刻みで入れていく。待ち時間15分、30分、60分というプラカードを作ってやりました。僕はハンドマイクを握って、しゃべりまくっていました。やっぱり丁寧に説明をし、なんで待って頂くのか、なぜ入れないのかって。本当に有難いと思ったのは、お客様から大きなクレームはなかったです。疲れた表情や、えーという表情もありましたが、基本的にはご理解頂いて。沖縄の人が待つって、珍しいですよね。

脱線しますが、なぜ15分30分待ちのプラカードを作ったかというと、そのちょっと前に家族で東京に旅行に行ったんですね。娘たちポケモンが大好きで、東京のポケモンセンターに行ったんです。そしたら、プラカード持っているスタッフがいて、15分待ちと30分待ちですと。お!なんだ、これはと。もしかしたら、これいけるかもしれないと思って。やっぱり普段からアンテナ張っていると、ピピピッてつながって。プラカード作ってた方がいいかもしれないと。それが本当に使えたので、あの場面を見て、キャッチして良かったとつくづく思いました。仕事って不思議ですが、プライベートや遊び、さりげない日常の中で感度を磨いてアンテナを張っていると、面白い展開をしていくんだなと、あの時、学びました。

多くの若い人たち、学生とかいろんな人たちと汗を流しました。一日一日終わる度にミーティングをして、あの展示ではこんなことがあった、ここに危険なことがあった、こうやって遊んだらもっとうまくいくねとか、みんなで提案したり反省点を出して、毎日毎日メモをしました。今日、メモも持ってきました。僕、こういうメモも捨てきれないんです。ノートにミーティングの時に誰があー言った、こう言ったというのをメモしながら、必死に毎日毎日を乗り越えたのを覚えています。そうやって乗り切って、15年があると思います。


ワンダーミュージアムのコンセプト「理解と創造は驚きにはじまる」。この驚きがワンダーですよね。人や物事、事象、世界を理解する。そして創造する、これはクリエイトですよね。わぉ!とびっくりしたり、感動したり、感激したり。このファースト・インプレッションで決まると。こども時代は豊かで、こども自身がワンダーな存在じゃないですか。こどもの国やワンダーで働いていて、モチベーションをキープできるのは、こども自身が驚異の存在、生命体で、こども自身の輝きとか、予知できない行動や言葉や表情を見ていると、もうほんとに地球の神秘とこどもの神秘に出会って、僕らは毎日リフレッシュして、なんとか仕事ができたのかなと思います。苦労が吹っ飛ぶというか、報われるような本当に幸せな瞬間。

ある時、ちょうど1階で入館受付もさせて頂いていた、その時に、小学校の低学年の女の子がつかつかと僕の前に走ってきて、「ここ、おじさんがつくったの?」と言うから、「みんなでつくったんだよ」っ言ったら、「ありがとう。とっても楽しい」って言ってくれたんですね。それから、また楽しそうに走って行
って。これが僕の中では一種の衝撃というか、子どもがこんなに素直にありがとうって言ってくれた。これだけでも、こどもの国、ワンダーミュージアムが存在して良かったのかなと。神様、本当にありがとうと思いました。

実は一昨日、ワンダーミュージアム15周年クイズ大会があって、ヒントマンということでゲストで呼んで頂きました。参加した小学生の男の子、兄弟二人なんですが、終わった後で僕はここから下の階をのぞいていたんですね。そしたら、地下2階の地球展示があるところから、弟が見上げながら「ありがとう!」と僕に手を振ってくれたんです。クイズ大会の間はウーマクーでしたよ。僕の存在なんて気にもかけないぐらい。だから、びっくりしたんですよ。えーって。僕も思わず、バイバイって手を振ったんですが。こどもって、凄いなーって。これだから、こどもと関わるって、奥が深いなーって改めて思いました。クイズの時には見えなかった彼の「なにか」に触れた気がして。一緒にいることで、たぶん彼の中でヒットする、彼の心を震わす「なにか」があって、ありがとうと言ってくれたのかなと思いました。だからこういう「ありがとう」が連鎖して広がっていくワンダー。「驚き」と「ありがとう」のワンダーがいつまでも続いてほしいなと思っています。


「人をつくり・環境をつくり・沖縄の未来をつくる」というこどもの国の理念、コンセプト。これはどんなに時代が変わり、状況が動いても、変わらないもの。核になる部分がないと、振り回されるじゃないですか。変えていいものは自由に状況に応じて、時代やニーズに応じて変えるべきなんですが、これだけは変えられないというコアなもの、それが理念、コンセプトだと思います。
人をつくる、人材育成ですよね。環境をつくるというのは、人も植物も動物も。そして沖縄の未来をつくる、沖縄という地域、コミュニティがあり、歴史や風土や文化というこの島々が未来にずっとつながっていくために、こどもの国はある。だから、沖縄こどもの国というのは、歴史的な使命が与えられた特別な場所じゃないかなと思っています。それを感じた志のある人たちが集まってつながって、今がある。

今日は正直、スタッフ4~5名が時間をつくって付き合ってくれるのかなというイメージでした。だけど、いつの間にか輪が広がって、こんなにたくさんの方とこの時を共有できたこと、本当に嬉しく、幸せに思います。僕のことは忘れて、僕の余談も忘れて。でも、ぜひこのコアな部分、そして、沖縄、こどもの国、こどもたち、自然、動物たちというのは忘れないで、一緒にこどもの国を応援して、盛り上げていければいいなと思っています。
一人一人の名前を呼びあって、ハグしたい気持ちでいっぱいですが、たぶん皆さんがひいてしまうと思うので、それはセーブしたいと思います。これで僕の話は終わらせて頂きます。

ありがとうございました。